ウルフ・フィーバー(大相撲編)


本日の雑草ポエム
タイトル
『 ウルフ・フィーバー(大相撲編) 』
1981年(昭和56年)、この年の大相撲界は まさに『千代の富士』一色に染まった1年でした。
1月場所で名大関 『貴ノ花』 が体力の限界で引退を表明し、また、その2日後には人気の大関 『増位山』 までもが引退を表明。
翌3月場所では黄金の左腕 『輪島』 も引退。
前年の11月場所で 『三重の海』 もすでに引退しており、当時の横綱は『北の湖』 と2代目 『若乃花』 の2人のみで、大関は不在という状況でございました。
初場所で横綱北の湖を下し、初優勝を飾った千代の富士は、3月場所で新大関となり、5月場所で13勝の準優勝、そして7月場所では早くも綱取り場所として注目を浴びておりました。
当時の九重親方(北の富士)は、『アイツの心臓には毛が生えている』と語ったほど、プレッシャーのプの字もなく勝ち進み、千秋楽で横綱北の湖と相星決戦の末、得意の速攻で見事に下し、14勝1敗で見事優勝。
内規により、満場一致にて第58代横綱へ推挙されるという、1年(実質7ヶ月あまり)で3階級も駆け上ってしまうほどの充実ぶり。
それはもう神がかり的な快進撃でございました。
しかし、夏巡業で左足を痛め、9月場所には無理を押して出場したものの、やはり3日目から休場し、早くも『短命横綱』 というレッテルを貼られてしまうことに・・・。
『短命横綱』
その言葉の重みに さしものウルフ・千代の富士も身を縮める思いだったに違いございません。
--------------------------------------------------------------------------------
満身創痍で挑んだ1年おさめの11月場所、横綱北の湖・若乃花の両横綱が休場し、千代の富士は横綱昇進後 僅か二場所目という復帰の場所で、いきなり一人横綱の重責を背負うことになりました。
千秋楽までに3敗を喫し、先に12勝目をあげていた朝潮を横目に挑んだ結びの一番、大関琴風に潜り込まれ、がぶり寄りの嵐を受けながら後退する軽量の千代の富士・・・土俵中央で放った首投げに琴風の足が大きく広がってしまい、勝負あり!
辛うじて優勝決定戦に駒を進ませることができました。
その時、土俵の中央で琴風と重ね餅になった際、(危なかったな・・・)
とでも言いたげに 少々微笑んでおりましたが…。
不敵の千代の富士貢関が、ほんの一瞬 秋元 貢さん(本名)に戻ったかように思えました。
そして優勝決定戦。
東の花道奥には、弟弟子(朝潮)の初優勝を心配した富士桜が神妙な面持ちで見守る中、こけら落としの新福岡国際センターに響き渡る大歓声の中で行われました。
立合いで前褌を引けなかった千代の富士は 朝潮のあたりをまともに受け、一気に黒房下まで攻め寄られましたが、足が俵に掛かった時点で左の前褌を引き付け、逆に一気に向正面へ走って寄り倒し!
見事に横綱の責任を果たしたのでした。
ウルフ・フィーバー・・・その言葉の通り、1年間で3階級の昇格、そしてその全ての階級で優勝するという、とんでもない実績を残しました。
『心臓に毛が生えている』 はずの横綱千代の富士でしたが…
支度部屋で髷を結い直している時の優勝インタビューで、目を赤く染め、唇を震わせながら泣いたのです。
それを見ていたNHKの解説者である神風正一氏も、思わず言葉が詰まって目頭を押さえ…。
NHKの瞬間視聴率は70パーセントを超えただろうと云われる初優勝劇から始まった 『ウルフ・フィーバー』、最後はしんみりと幕を閉じたのでした。
当時、私は16歳。
2枚の写真は蔵前国技館でモミクチャになりながらも 必死にシャッタ
ーを切ったもの…。
雑草ポエムはこちらから↓
http://
ここでいただきましたコメントは、『雑草ポエム掲示板』へ転記させていただきます。
『雑草ポエム掲示板』↓
http://
(個人専用アイコンをお作りいたします)
スポンサーサイト